西原八丁目 Nさんの記憶

 

昭和15年(1940年)生まれ、81歳(令和3年(2021年))

原爆投下時、4歳。母から聞いた話によると、何人かの被爆者を家で看病したとのこと。何人かの被爆者の方に、家の部屋を貸していたとのことです。

また、当時の防空壕のことについてもお話されました。

 


 

 原爆の記憶

原爆投下時、私は4歳半でした。原爆のことについては、母から話を聞いて育ちました。

 

原爆がさく裂した時、我が家(爆心地から8kmくらい)のガラス窓も吹っ飛んだそうです。割れたガラスを集めてきて、紙にのりをつけて貼って、窓として使ったそうです。爆風の影響で、障子と柱の間がすいて、すきま風が入るようになりました。昔の家は、一度くるうとなおらなかったようです。

 

原爆の投下後、被爆者を何人か自宅で看護しました。縁側に寝かせて看病しましたが、「水をやってはいけない」と言われ、水をあげなかったそうです。

 

被爆者は次々と大八車で連れてこられました。被爆者の身体には、ハエがたかっていたそうです。ハエの数はものすごく多かったそうです。被爆者の身体から膿が出ていました。それを母たちが看病しているのを見た記憶が残っています。

 

その後、被爆者の何人かは、私の家に間借りされました。4畳半にりんご箱一つ、2~3人が一緒に暮らしておられたようです。野菜や米、小米(いらない米)を分けてほしいと頼みに来られていたようです。

 

我が家の近くの竹やぶにも、雨露をしのぐ被爆者の人々がたくさんいらっしゃったと記憶しています。

 

 

防空壕の記憶

戦争の頃、西原にも多くの防空壕がありました。私の家も自宅の畑に防空壕を作っていました。2m位の深さで、防空壕の隣が田んぼなので、田んぼの水が入ってこないよう、板をしきりに使っていました。

 

防空壕は、北と南にそれぞれ1か所ずつ出入口を作り、片方の出入口が空襲でつぶれても大丈夫なようにしていました。北側の出入口は餅板で蓋をし、南側の出入口は雨戸の上にむしろをかけて、その上に土をかけていました。

 

防空壕の中には、夏は蚊がたくさん来て、とても困りました。