太田川

 

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太田川:

中世、太田川は安芸国北部の年貢米を川船で河口の祇園、堀立の倉敷地へ運ぶのに利用され、その後も広島城下と内陸部を結ぶ大動脈として広く利用されていた。

 

昭和10年代終り頃までは多くの川船が往来して木材や薪炭などが運搬され、又、材木を運搬する筏流しも行われていた。筏が流れ下ってくると遊泳中の子供達が船頭の目を盗んで筏に乗り、叱られている光景をよく目にしたものである。

 

原小学校の春の遠足では何隻もの川船を連ねて広島市の中心部を下り、江波沖で汐干狩りを行うのが恒例となっていた。

 

西原にも、新川(祇園新橋の少し上流・「日野の浜」あたり)、五軒屋、沖の浜や古川沿いに船着場があり、数隻の川船が広島への野菜の運搬や下肥の引き取りに利用されていた。古川も広島への野菜の運搬など川船の運行に利用されていた。

 

藩政の時代には、新川の浜には藩の役人がいて、下る舟荷の取り調べをしていた。そのために多くの船が並び、ひしめき合っていたということである。祇園方面へ行く荷も、西原で荷上げされて肩に担いで運んだという。

 

新川の少し下流の河合沖(祇園新橋のすぐ下流あたり)には、加計など太田川上流からの荷船人足の泊まる船宿もあったとのこと。

 

しかし、ダムの建設による水量の減少や洪水による川床の変動、又道路の整備、自動車の普及、鉄道の建設など陸上交通の発達によって昭和2 0年代には殆ど利用されなくなった。

 

(西原今昔物語・祇園町誌)

 

 

安川:

安川は明治から大正初期には水深が1.5m位あり、上流の安方面から広島市まで川舟が往来していた。

往きは農産物や柿を、帰りは肥料や日用品を運搬していた。その後堆積した土砂により川底が浅くなって舟の運行が出来なくなり、大正末期には舟運は姿を消した。

昭和3 0年に古川への放水路が出来て、安川は廃川となり、公園や道路に生まれ変わっている。(現在の安川緑道公園) 


渡し場:

西原の人は対岸の戸坂、牛田に渡る場合は、東原の千足(上・下)(現在の安芸大橋あたり)の渡しと、長束の長和久(現在の祇園大橋あたり)の渡しを利用していた。

 

渡し船は太田川主流には昔21ヶ所もあって、県道を結ぶ渡し船は、県が建造し負担もしていた。しかし、ほとんどの渡し船は集落の「講」が負担し、船頭は講中の者が輪番で行うか、または専門に雇うといったかたちであった。一部下流域では個人経営の渡し船もあった。船底が一枚板状で横幅がやや広く、縦がやや短い型の牛、馬を乗せる渡しもあった。

 

昔、渡し場があった場所付近には橋が現在かかっており、その船着き場などの遺跡も多く残っている。

 

千足の渡し場:

昭和16年(1941年)に県営の渡船場となった。わずか300m離れて、千足と樋の口の2か所の渡船場があるほど東原と戸坂間は通行する人が多かった。この渡し舟は戸坂と東原から交互に船頭に当たっていたようである。この渡し舟で渡る時は「渡し賃」を支払った。昭和26年(1951年)頃で片道5円。(当時のたばこ1箱30円くらい)

(祇園町誌)

 

 

長和久の渡し場:


太田川の船運:

太田川の船運はいつ頃始まったかは不詳であるが、陸路にくらべ水路は天然の交通路であり、水量も比較的めぐまれていたので、最大限利用されたものと考えられる。広島城の築城(1589年)を契機に、可部から下流域にかけての舟運が重要視されて、益々盛んになり、その後約3 5 0年位、川舟による舟運が続くのである。広島の城下の整備が進むにつれ、建築材や小石(グリ)も必要とされ、人口が増加するに従って薪、炭の需要も増えてきたので、経済基盤の整備を急ぐため、川舟の利用が一段と必要性を増すようになった。

 

太田川で利用された舟は、川の深さや流れの速さ、用途によってさまざまな工夫をこらして多くの種類の船がつくられたが、基本的には①荷船、②魚捕り船、③渡し船の3つに区分できる。

 

①荷船:

太田川を上り下りし、荷を運搬する川船は大きく分けてオオブネ(大船)と、下流域に多く見られた川砂や小石などを採り運んだグリブネ、特に川内周辺の野菜生産地帯に見られた肥料となるし尿を運搬するコエブネの3種類に分けることができる。

 

オオブネは、特に上流の可部から薪炭、浅木を含めた燃料の輸送が主であったが、農産物や林産物等生活物資全般にわたるだけでなく、鉄などの原材料や半製品、可部で作られていた風呂釜などの製品等も含め、かなり活発に輸送していたようである。

 

可部から上流域に特にオオブネは多く、船の所有者は船の表側に乗るのが普通で、卜モ側はその都度雇う場合が多く、共乗りと呼ばれていた。乗りは兄弟や親子あるいは親戚の者同志で運行する場合もあり、加計の坪野あたりの船は、前日積荷し翌朝広島をめざして出発、昼前に寺町付近の雁木に着き、荷揚げして帰路につく。冬期は牛田の不動院前や西原河合沖の船宿に泊まり、夏期は可部の荒下へ泊まり、翌日帰るので週2往復がやっとであった。

 

グリブネについては広島城築城以後次々と進められる埋め立て事業、あるいは護岸の整備等で活躍したものと思われ、昭和4 0年前半までよく見られたが、河川改修によりその後は全く見ることはない。

 

コエブネも市街地に近く手近な肥料でもあったので野菜の生育期にはかなり活発に動いたものと思われるが、馬車輸送に変わり戦後はまもなくなくなった。

 

②魚捕り船:

太田川は、古くから河川漁業が活発に行われていた。昭和の初めころまでは鵜飼いも行われていた。アユ漁、カニ漁、ウナギ漁、ウグイ漁など多くが知られるが専用船が、以前は色々あったようである。よく知られているのは、アユを釣るためによく使われ、今日でも多く存在するサイリと、ハヤやアユなどを投網により捕るチャンコとがあるが、今はチャンコは全く見られない。

 

 

③渡し船:

太田川流域は平地が少なく山が多いので集落を結ぶ道路の整備が遅れ、又川を渡す橋の建設も遅れ、要所には戦後も多くの渡し船があった。しかし道路や橘が整備されるに従って次第に姿を消していった。