可部線と下祗園駅の歴史

 

このページは、西原今昔物語、祇園町誌ほかの資料を参考にして作成しています。

出典はこのページの最後に記載しています。

 


可部線建設前夜:

明治27年(1894年)6月に山陽鉄道が広島駅まで開通しました。日清戦争に備えて軍需物資、食料等の大量調達が急務となる中、中国山地からの木材や穀物の輸送の必要性が高まっていました。

 

日本初のバス:

明治36年(1903年)1月には横川〜可部間に我が国最初の12人乗りバスが営業開始をしました。しかし、乗客が少なく採算が取れなかったため、同年9月には廃業になってしまいました。


 

可部線の開通:

明治38年(1905年)に日露戦争が終り、再び広島山間部に鉄道敷設の要望が持ち上がりました。代表者の雨宮敬次郎をはじめ地元の有力者の協力を得て、山陽鉄道並みの敷設認可を申請しましたが認められず、軌道間765㎜の軽便鉄道として明治41年(1908年)7月に認可をうけました。区間は横川〜可部間13. 6kmでした。

 

雨宮敬次郎:

雨宮敬次郎は可部線の生みの親ともいわれます。1846年(弘化3年)山梨県に生まれました。鉄道事業を拡大するとともに製鉄業に参入。海軍の鎮守府のある呉市をたびたび訪れる中で、広島の住民から県北への鉄道敷設の要望を聞き、事業として成り立つと考えたのか、その実現を後押ししました。

 

横川~下祗園駅間が開通:

明治41年(1908年)11月に横川〜下祇園間が最初に開通しました。その後、土地買収や工事に時間がかかり、明治44年(1911年)7月にようやく全線が開通しました。開通後は乗客数も多く、可部線を運行する大日本軌道広島支社は黒字経営となっていたようです。

可部線の駅:

明治41年(1908年)の可部線開通当時は、600mから700mおきに駅が置かれていました。横川~古市間を見ると、横川駅、松原駅、新庄駅、長束駅があり、下祗園駅は現在の場所の約100m広島寄りに設けられていました。安神社裏には上祇園駅があり、そして古市橋駅に至っていました。


下祗園駅:

昭和11年(1936年)に可部線が国鉄になり、祇園町が目覚ましい発展の時期であったこともあり、下祇園駅は乗客が激増し、貨物の輸送も増加しました。駅舎の増改築が必要となり、現在地に敷地を買収し、昭和18年(1943年)4月30日に新築落成をみました。

下祇園駅はこれまでは駅員一人で出札、改札を行ない、駅舎も木造の間口約三間(約5メm)、奥行一間半(約3m)位の小舎でした。しかし、新築により面目を一新し、祇園町の玄関口としての偉容を保つようになりました。

この駅舎は令和6年(2024年)1月まで、約80年間使用されました。


最初のころの可部線:

 

可部線の2つの大きな坂:

可部線の横川〜可部間には大きな坂が2か所ありました。

最初の松原駅〜新庄間は長い上り勾配となっていました。当時は客車2両連結でしたが、乗客が多い時は松原駅で先に乗客を乗せて、駅より後方に200m位下がって、充分に蒸気を上昇させて馬力をつけ一気に新庄橋駅まで突っ走っていたようです。

 

また、梅林駅〜八木駅間は途中で道路を横断し、曲線で急勾配となっていましたので、時々途中停止することがありました。止まりそうになると乗客の男性は客車から降りて、短い区間ではありましたが後押しをしていたとのことです。

したがって、列車時刻には発車時刻は明記してありますが、終着駅の到着時刻は全く記入されていません。その背景にはやはり定刻に走ることのできない物理的要因があったと考えられます。

 

機関車のカンテラ:

機関車の前灯はカンテラが使用されていたので、風の強い時などはよく消えていたようです。早朝や夜間運転は周囲が暗くて、駅のホームでは停車する位置がわかりにくかったので、運転士は自分で停止目標を定めていたとのことです。

 


消えていく古い交通手段

 

可部~横川間の客馬車の衰退:

可部線が開通することによって、これまで客馬車として可部〜横川間を運行していた業者が急速に減少しました。明治42年(1909年)には客馬車が72業者いましたが、明治44年(1911年)には17業者に減ってしまいました。

可部線開通以前の客馬車の運賃は一人25銭(可部〜横川間)でしたが、可部線が一人の運賃(横川〜可部間)を15銭としたので、それに合わせて値下げしなければなりませんでした。当時の道路は舗装されておらず、凸凹もあり、石ころもあって、客馬車の乗り心地は大変悪かったようです。早くて乗り心地の良い軽便には勝てず、15銭に値下げすると採算の取れない業者もいて、自然と減少していきました。

 

太田川の川船の衰退:

可部線の軽便開通は、太田川の舟運にも影響を及ぼしました。可部付近にいた川舟も、明治42年(1909年)頃には40隻いましたが、明治45年(1912年)には12隻に減少しています。舟賃も可部〜広島間一人10銭から5銭に引き下げられました。

 


可部線の電化:

 

軽便の煤煙:

燃料は微粉炭を使用しているので、煙突から出る煤煙は大変なものでした。風向きによっては窓を閉めてもすき間から入ってくる煤で肌や衣服が黒く汚れることがあったようです。

大正時代になって市内電車が営業を開始すると、機関車から出る煤煙がとかく問題となりました。大正3年(1914年)7月4日の晴天日に、松原〜新庄橋間の沿線にある農家のわらぶき屋根に煤煙にまじった火の粉が降りかかり、火災が発生、農家は全焼しました。これが後日裁判汰となり、軽便を運転することはいよいよ難しくなりました。

 

全線電化の完成:

大正5年(1916年)に山陽鉄道並みの機関車を導入するため、軌条の巾を1067mmに改修することになりました。しかし、度重なる風水害の被害を被り、太田川鉄橋の流失、線路の流失等の大きな被害が発生し、2年近くに渡って営業できない状態が続きました。このようないくたびかの苦難を乗り越えて、昭和5年(1930年)1月にようやく念願の全線電化が完成し、快適な気持ちで旅行できるようになりました。

 

国鉄に移行:

可部線を運行する会社は開業時期から数回変わりました。

昭和11年(1936年)9月、当時の運行会社である広浜鉄道から、鉄道省が横川〜可部間を買収し、可部線は国鉄となりました。

 


可部線の延伸とその後:

昭和34年(1959年)、広島~加計間がディーゼルカー運転に切り替わりました。

昭和44年(1969年)7月、横川〜三段峡間60.2kmが開通しました。

 

可部線輸送の衰退:

三段峡付近は戸数も少なく、主体は山間部にある材木の輸送に重点が置かれていました。しかし、この頃から他の交通機関、特にトラックの出現によって、戸口から戸口に運送され始めたため、鉄道での輸送が徐々に減っていきました。

 

可部~三段峡間の廃止

平成15年(2003年)12月、可部~三段峡間 46.2㎞は赤字を理由に廃線、35年の歴史に幕を閉じました。

 

可部駅からあき亀山駅までの復活:

地元住民の鉄路復活運動などもあり、平成29年(2017年)3月に可部駅からあき亀山駅(旧・河戸駅の西方)までの 1.6km が電化延伸されました。

 


可部線を走った主な車両: ウィキペディアから転載しました。詳細はこちらをご覧ください。(ここをクリック)

 

戦前から戦後の頃:

1970年代以降:

新しい車両の導入: 平成27年(2015年)から新しい車両の運行が始まりました。