西原 Mさんの記憶

 

このページは、「原爆と祇園町」(昭和61年3月、原爆と祇園町編集委員会編集、広島市祇園公民館運営員会発行)から引用しました。

 


臨時野戦病院のようになった

 

西原のMさんの家では、間数が多くあったので、陸軍第二部隊の医療品や、軍服が山の様に積み込まれていた。従って被爆直後から、軍隊の車で負傷者が続々運び込まれた。そして一般避難者の群れとで満ちあふれ、その数は実に数十名を越えていた。緊急臨時救護所が設置され、被災者の看護に多忙な時間を過ごした。自分の家の後片付けもそこそこに、負傷者の看病に努めた。

 

顔、胸、両手、そして太股から爪先まで焼かれている。感覚が麻卑しているのか、痛みをまるで感じないのか、全身が打ち砕かれてしまったように身動きがとれない人、頭を並べて横になった人の中に、すでに息を引きとっている重傷者もあり、Mさんの目前で、世にも不思議な光景を見て、戦争の残酷さに胸をしめつけられる思いだった。仏になった遺体は、直ちに軍隊の手で三篠神社の境内で火葬に付されたという。

 

家のすいか、トマト等を食べさせてあげると、皆んな手を合わせて涙を流して喜んだ。火傷の手当てには油を塗ったり、野菜の汁をつけたりしたが、効果は期待できない。それでも感謝をしているので、世話のしがいがあった。

 

或る若い男女の被災者が、 メモノートを出して

「ここが僕の家です。連絡をお願いします」

と哀願した。電報を打とうとしたが、全く連絡はつかなかった。

 

被災者の中には、知人の連絡によって家族の方が引き受けて帰られた幸運な方もあった。そんな時は嬉しかった。

「どうかお元気で」

とお送りした。その後どうなさったか不明である。