洪水の歴史

 

このページは、西原今昔物語等から引用して作成しました。

 


洪水の体験(昭和18年(1943年)9月20日の台風26号による洪水):

中世の太田川は古川流路を流れていたが、慶長14年(1609年)8月16日の大洪水により、流路は現在の流路(東原と戸坂の間を流れる)に変わり一応安定したが、その後も太田川は、しばしば氾濫を繰り返し被害(水害)を受けていた。

 

例えば元和3年(1617年)の洪水の際には広島城の石垣も一部くずれたので、それを幕府に無断で修復したという責めにより城主の福島正則は移封されるという事もあった。

福島氏に代わり城主となった浅野氏の時代(12代250年間)にも太田川は、しばしば氾濫を繰り返し、流域は66回も洪水の被害を受けている。

 

筆者の生家は文化、文政の頃(約200年前)から太田川の堤防近くの西原に居住していた。そのため住居の裏通りは左右に田圃があって道路は低く、太田川の水位が3.5 m位増水すると、田圃はすっかり水を被って道路まで覆いかぶさってくる。この程度の浸水では子どもたちはまだ遊び心で楽しんでいたが、水が家の庭に回ってくると、大人達は水害に備えて家畜(牛鶏)の移動や藁の上げ積みをしている内に水が床下まで上がってくると、だんだんと怖さが身にしみるようになり一層不安を感じたものである。

 

とくに昭和18年9月20日の台風26号の恐怖は今でも鮮明に記憶に残っている。当時筆者は小学校4年生の子どもであったので、親の手伝いどころか足手まといになっていた。親たちは既に床上浸水を予想して畳を上げる準備に取り掛かる。平屋なので家財道具が水浸しにならないようにするために、床に大桶を2個並べてその上に畳を重ね、さらにその畳の上に家具や日用品を載せておく不安定なものであった。(このような処置を水揚げと呼んでいた。) 大体の準備が済むと、にぎり飯を食べながら、台風の放送をラジオで聴こうにもアンテナが倒れて聴くこともできない。

 

その内水が床上まで上がり、1cmでも増水すると不安が大きくなってくる。風雨もだんだん強なってくる。電灯は消え夜も更けてくると、裏を流れる水が不気味な音をたてながら、家に覆いかぶさってくる。父母の顏も一段と厳しさを増し、床上に5cm、10cmと増水してくる度に恐怖心がつのる。大体台風がやってくる時刻は満潮時と重なって夜中になるため、被害が一層拡大するのである。現在のように携帯ラジオや懐中電灯もなく、マッチでローソクに灯りをつけ、それを照明とするので少しでも風が吹くとすぐ消えてしまう。兄や姉もいたがいづれも10代で、いざという時にはあまり役に立たなかったようである。しかし兄や姉が身近にいるだけでも何となく気分が落ちつく。

 

床上の水位が20cm、30cm くらいになる頃風雨も一層強まり、裏窓をたたきつける風雨は、今にも古い窓を打ち破るのではないかという怖さを感じながら、板を窓の内側から打ちつける。それでも強く吹きつける風に吹き飛ばされそうになりながら、全員が思わず窓や壁に体ごと押しつけながら、一時的に強風が収まるまで必死でがんばる。それよりも、もっと恐怖に感ずることは、最初に目印を付けた所から水位がじわじわ上昇し、遂に腰のあたりまで水位が上がった時である。「まだ水が増えよる」という声に一瞬絶望感が漂い、水の中に体が浸っている冷たさなど感ずるよりも前に恐怖感がおそう。やがて家もろとも押し流されるのではないかと、みんな覚悟を決めた時もあった。

 

時刻は朝1時頃だったと思うが、又一段と台風が強まり、急にメリメリッと大きな音が聞こえた時には、一瞬家が倒れるのではないかと思ったが、(後で判ったことだが)前隣の家が倒れる音であった。

 

ごうごうと音をたてながら流れる太田川の激流の速さに敗けない位の速さで裏道を流れる姿は、あたかも川中の孤島と云った所であった。恐怖心がやがて絶望感に変わろうとしていた頃、兄の「水が減っているぞ」という大声を耳にして思わず灯りをたよりに壁や柱に近寄ってみると、確かに波にゆれながらも最高の位置から2〜3cm下がっている。その時初めて我に帰って恐怖の重圧から解放される気持ちがした。しかし水に浸された壁面は、殆どこまい竹のみを残して壁土やしっくい等は水と共に流失していた。

 

じわりじわりと20cm、30cmと水位が下がっていくにつれて、泥水に覆われた床板を急いで掃除したものである。強くこすり洗いしなければ、泥水は少々の水洗いをした位では、ヘドロは流し切れず、直ぐ表面が泥で覆われたように白くなって、後でこすっても、なかなか元通りにきれいになりにくく、大変な作業がこれからも続き、床下のヘドロの除去等後始末が数日かかるのである。

 

家の中のみならず、田畑の作物の被害も甚大なもので、もうこんな所には住みたくないと何度思ったことか。それでも住み慣れた場所からは移動はできないものである。


水越し土手:

河川が蛇行しながら流れる所では、洪水の時、水圧を受ける外側の堤防(土手)が決壊することが多い。

 

旧安川は旧今津橋付近(西原5 丁目)で大きく「くの字」に蛇行しているので、洪水の際には西原側の土手に激流が当り、堤防が決壊する恐れがある。それで洪水の際に西原側の堤防(土手)を守るために、祇園側の堤防を西原側よりも約1m低く造成している。これは河川が増水した時、水がこの堤防を越えて流れるようにするためである。このような堤防(土手)を「水越し土手Jと呼んでいる。

 

このような土手は、安川の右岸(西側)祇園の勝想寺の裏側の土手より、伊予屋原の土手までの間、総延長が凡そ700〜800mにわたって続いている。 かつて今津橋の対岸、祇園の水越し土手の下には、「水越」と言う地名があり、そこには広い水田と畑があった。そしてこの水越の田畑は、洪水のたびに増水した濁流があふれて、田や畑は水没する遊水地となっていた。(遊水地とは洪水の際、氾濫した大量の水を田畑に導いて一時的に汚水を滞留させて、水位を下げる役割をする田畑のこと。)

 

このように洪水の際には遊水地(池)に一時的に大量の水を滞留させて水の勢いを弱めて、西原側の土手が決壊しないようにしていた。

このような水越し土手(中土手とも呼ぶ。)は他の地区や全国的にもまま見られるものである。

 

なお、広島城や城主の家臣団の居住区のある中心地域を水害から守るため、中枢部を囲む太田川の堤防は、対岸の楠木町、横川町、打越町等を囲む堤防より一段と高く造成されている。これも水越し土手と同じ治水上の発想である。 

 

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