西原の地名の由来

 

このページは、「西原今昔物語」から引用して作成しました。

 


西原の地名の由来:

西原や東原という地名はいつ頃から用いられるようになったかは明らかでないが、古代(奈良.平安時代)の西原や東原は幡良郷と呼ばれていた。大日本地名辞典(吉田東伍著)によれば「倭名類聚」(10世紀初め(931年〜938年)頃の古文書)を引用しながら次のように述べている。

「安芸郡幡良郷とあり、また高山寺本では「波羅」となっている。今の東原、西原、小田、川内、三川(古市)の諸村なるべし、深川の西南にして佐伯郡緑井郷(緑井村、八木村)に接す。」とある。

 このことから1300年〜1200年前には、この地域(幡良郷)は沖積平野の新開地で住む人も少なく、未だ村の境もはっきりせず、西原や東原や戸坂等に連ながる地域一帯は雑草や潅木等が茂る原っぱであったので「はら」と呼ばれていたのであろう。もと西原も東原も1つの村で「はらの庄」と呼ばれていたこともある。

 古代の太田川が鎌倉時代(800年〜700年前)の大洪水で古川流路を流れるようになり、西原と東原は川で分断されると、中世の「はらの庄」は今の古川を境にして西側を西原村、東側を東原村と呼ぶようになった。その後大正9年4月1日に両村が合併して「原村」となるまでは長期間西原村、東原村と称していた。なお、原村は昭和18年11月30日に祇園町と4ヵ町村が合併したので消滅した。

(西原今昔物語)


地名(小字名)の由来(西原今昔物語):

 

川成:

 現在の西原五丁目(旧安川に架かっていた今津橋や酒屋橋からイズミ祇園店までの土手と国道54号線との間の広い地域)は、「川成」という地名(小字名)である。川成とは、「洪水によって土地が流れて川に成った所。」「洪水でしばしばかん水する所。」という意味であるが、この辺りは上古から中世までは、太田川の本流と安川が合流して流れる河道であったので、たびたび洪水があり、その都度田畑が流され耕地(農地)としては不安定であったことを示す地名である。

 

八日市:

 現在の西原一丁目の区域内に「八日市」という地名(小字名)がある。平安時代の終わり頃西原は太田川の河口にあたり、祇園帆立には太田川上流から川舟で運ばれてくる年貢米を一時保管する倉敷地があった。そのためこの付近一帯は交通•経済の中心地として繁栄していた。中世の頃には、毎月8日この地で「佐東八日市」といわれる定期的な物々交換市場が開かれていたのでこの地名がつけられたと言われる。

 

今津:

 西原五丁目、八丁目付近に「今津」という地名がある。前にも述べたように中世の西原は太田川の河口にあり、付近に倉敷地や港もあった。それよりやや遅れて(室町時代)新しく(今)できた港(津)ということから「今津」と名付けられた。

 

河合(こうごう):

 西原二丁目原南小学校付近に「河合」という地名(小字名)がある。河合とは2つ以上の川が合流するところ(地域)、或いは合流して流れるところ、という意味である。

 

五軒屋・三軒屋:

不毛の原野であった古代の西原には住む人も少なく、小さな集落が点在していた頃、たまたまそこに家が5軒あったので「五軒屋」と呼ばれ、3軒位の集落は「三軒屋」と呼ばれていたものが、そのまま地名として現在も使用されているのであろう。

 

池のつく地名:

 西原は沖積平野(沖積低地)に位置しているので標髙も低く、太田川や安川は古代よりしばしば氾濫を繰り返し、その都度耕地(農地)は水害を受け、中には激しい水流で地面が深くえぐられて、大きな陥没地となり耕地としては復元できないで、そのまま放置された所が浅い池沼として残ったのである。

 このことについて、『芸藩通志』(文政8年一1825)によれば、「大池、中池、実近池、西原村にあり、皆禁所なり」、「じゅん菜(清浄な浅い池沼に生育する睡蓮科の水草で、水中の若芽をつんで食べる。吸い物に入れるとヌルットしておいしい。)、西原村実近池に生る、殊に佳なり」とあるように、現在では消失して見られないが、水面が一反(300坪)以上もある池が西原の各地に残されていた。このように西原の地名には、池に係わる地名(小字名)が多いことが分る。

 池に由来する地名を西原の北から順に挙げると、実近、池之内、尾之池、青池、大池、中池筋、久保(池ではないが窪地)、中池、菖蒲池等である。なお、実近池、大池及び中池は、『芸藩通志』の絵図(P4參照)にそれぞれの所在個所が記入されている。