西原今昔物語に紹介された原爆の記憶

 

原爆投下時の西原の状況について、書かれています。

 


8月6日午前7時30分ごろ兄警戒警報が解除されしばらくしてまた爆音が聞こえたので分散事業をしていた子供たちは屋外に出て音のする方を見上げ、高高度を飛ぶB29を目撃していた。

 

突然落雷のような鋭い選考が当たりを被ったので、一瞬何が起こったかわからぬまま本能的に反対方向の家影に畑の全員を誘導避難した。まもなく大爆音が轟き、とっさに日頃訓練を受けた通り両手で目、耳を抑え地面に伏せた。爆風であたり一面もうもうと砂埃が立ち込めていたが、しばらくして空を見上げると広島の上空に大きなキノコ雲が見えた。

 

屋内に戻るとガラス窓や障子が吹き飛ばされ、あたり一面に散乱し、天井も吹き上げられ、足の踏み場もない様子で、この場にいたら大変なことになっていたと一瞬背筋が寒くなる思いであった。子供ながらに皆ただごとではないと直感し青ざめていた。子供たちは勉強道具を探すこともできず急いで帰宅し、大人も所々に集まって広島の方を見ながら不安そうに話していた。広島の上空は真っ黒な煙が高く舞い上がり、長束のワラ屋根の家が燃えているのも見えた。

 

まもなく父が「広島は大事じゃ」と言いながら帰ってきた。父の話によると、牛舎に乗って広島からの帰途、新庄橋付近で背後から光線と爆風を受け道路に投げ出され、一瞬気を失った。奇跡的に首筋の火傷だけで大きな怪我もなく、何事が起きたかよく判らぬまま、独り我が家に向かっている牛車に追いつき、帰ってきた。その時、既に周りの家から火の手が上がっていたとのことであった。

 

広島に勤務している近所の人たちもぼつぼつ帰宅して一様に「これは一大事じゃ」と云っていた。  

 

しばらくすると、皮膚が焼けただれ、皮膚が垂れ下がったり、出血の後も生々しい人たちが続々と避難して来始めた。大人も子供もその対応に追われ、赤チンや食用油で気休め程度の治療しかできず、トマトやキュウリ、おにぎりなどの食べ物を提供して、休息させるだけであった。それでも避難者はしばらく休息した後、お礼を言って古市や可部の方へ歩き出した。

 

このような状態が夕刻から翌日にかけても続き、炊き出しや避難者の行先への案内などの手伝いに追われた。町内など近くの家へ避難する人を自転車やリヤカーで送った。

 

西原でも学徒動員や建物疎開で広島に出かけたまま帰宅しない人も多く、この人たちの救助に親戚や近所の人が多く出かけたが、火災の熱や通れる道もなく、当日は空しく引き上げるのみであった。

 

太田川には上げ潮で運ばれてきた魚の死骸が多く浮かんでいた。翌日から消息不明者探しが連日多くの人たちで続けられたが、消息が判明したのはわずかであった。

 

広島の火災は何日もくすぶり続け、不安な日が続いた。一発の爆弾であのような大惨事が発生したので、今までの爆弾とは違う事は皆気がついていたが、正体が何であるかわからず、確かな報道もなく一層不安を募らせた。誰言う事なく「新型爆弾」あるいは爆発の現象から「ピカドン」と言うようになった。原子爆弾と判ったのはしばらく後のことであった。

 

(西原今昔物語)