原小学校

 

原小学校の昔の写真については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 

年号(赤字)順に、それぞれの時代の背景なども掲載しています。 

お急ぎの場合は、年号とその下に掲載している説明をご覧いただければ、概要がお分かりになられると思います。 

なお、特に断りのある場合以外を除いては、「西原今昔物語」から引用しています。

 


原小学校の歴史と、それぞれの時代の説明

 

明治6年(1873年) 

小学校の前身として、私学が創立したという。校名不祥。

 


明治8年(1875年) 

沼田郡西原村に研精舎(研成舎との説あり)創立

西原村に西原尋常小学校、東原村に東原尋常小学校創設

 


大正9年(1920年)8月1日

安佐郡西原村・東原村が合併し、原尋常小学校となる。当時の児童数は271名(男子129名、女子142名)

 

大正9年(1920年)の主な学校行事

10月

 氏神祭、冬木•瑞穂両神社参拜

 第1回運動会、女子はじめて体操服を着用。

 (沿革誌によれば、女の子の体操服を着用することに、父兄を交えて話し合いがもたれたと記されている。)

 天長節

11月

 全校学力調査

大正10年(1921年)1月 

 新年拜賀式、児童談話会及び体育大会、全校学力調査

2月 

 紀元節、全校学力調査

3月 

 1、2、3年八木梅林へ修学旅行

 4、5,6年厳島神社へ修学旅行

 学芸会

 第1回卒業式(男子16名、女子23名)

 

三大節(新年•紀元節•天長節(昭和4年より明治節を加え四大節となる)のようす

この儀式は荘重を極め、式場の正面前方を一段高くし、両陛下の真影を奉置し、その前に紫紺の垂れ幕を張った。参列の来賓、職員、児童は礼装に威儀を正し、厳粛なものであった。なおご真影奉安殿は、校地の端におかれ、職員も児童も、登下校の際には必ず最敬礼をしていた。

学校での主な儀式には、村長、学務委員、村会議員、農協の組合長などが、来賓として參列していたようである。昭和に入って、婦人会会長、在郷軍人の代表なども参加していた。

 


大正13年(1924年)

東原青年会館に高等科を併設し、原尋常髙等小学校と改称

 


昭和10年(1935年)頃

 

当時の1年間の主な学校行事

4月 入学式 尋常科60名、高等科26名

5月 楠公六百年祭、記念式

6月 豪雨出水につき、臨時休業

10月 二宮尊徳80年祭

11月 親王殿下ご降誕遥拝式

昭和11年(1936年)

3月 卒業式 尋常科55名、高等科31名

 

校舎の変遷

明治時代の校舍については、記録が残っていないので、はっきりとしたことがわからない。

明治になって「学制」が発布され、数年たって祇園町周辺で小学校の校舎を建てた記録が残っている。

 

原小学校の場合も明治7年(1874年)〜8年(1875年)頃、平屋建の校舎を建てたものと思われる。

古老の話では、村役場と並んで平屋建の校舍があった。夕方等、村の青年が集まって、芝居の練習をしていたことを思い出す。子ども達は外で裸足で遊びまわり、勉強の時は前の川(八木用水)で足を洗っては校舍に上がっていた。女の子の中には背中に赤ん坊を背負って、子守りをしながら勉強をしていた者もあった。勿論皆んな昔の着物で、洋服は大正以後である。

 

校舎の変遷位置図

① 明治初期より昭和7年(1932年)までの平屋校舎。

② 昭和7年(1932年)に改築された2階校舍

③ 昭和26年(1951年)より現在地に移転し、その後徐々に拡大して、昭和35年(1960年)には現在の基礎が整う。

◎ 昭和12年(1937年)に村役場が1から2へ移転、講堂新築。

 

昭和12年(1937年)新築の原村役場

講堂建設

昭和12年2月に新しく講堂ができた。それまで儀式等は、2階校舎の教室のしきりを取った2教室を使って行われていた。

 

講堂を造ることについては、当時出稼ぎのためにアメリカに渡り、大変な苦労の末に財をなされた地元出身の方々に呼びかけて、多額の寄付が集められた。それに村人からの寄付をあわせて、近隣にない立派な講堂を建てることができたという事である。

それと同時に村役場も講堂の隣に建てられて、村の大きな喜びであった。

 

当時の校舍は2階建ての校舍で、1階は職員室と低学年、2階を高学年が使用していた。職員は校長と8名の担任で、女の先生は2名だった。1学級は50名前後で各学年とも1クラスだった。儀式等は1年生より参加して、相当きびしかった。

 


昭和12年(1937年)

7月7日、日中戦争がおこる。

学校の記録をみると、毎月のように出征兵士を村境(長和久)まで見送るようになる。

また年に数回、戦死した人達の村葬が講堂で執り行われ、児童達も参列している。

学校の中でも若い男の先生達が召集され、学校でのお別れの式が続いている。男の先生に代わって女の先生がだんだん多くなってきた。

 


昭和16年(1941年)

原国民学校と改称

昭和12年(1937年)の日中戦争から後は、「国民精神総動員」が展開され、戦時色の強い教育となった。昭和16年(1947年)に小学校令が改正され、小学校の名が「国民学校」と改名された。

 

昭和16年12月8日、早朝、冬木神社への集合の連絡があり、そこで日米が戦闘状態に入ったことを知る。子ども心に大変な事になったと思った。

 


昭和19年(1944年)

高等科を廃止し、祇園国民学校高等科に編入

 

この年の4月から6月頃までの主な学校行事

4月1日 入学式及び始業式

4月8日 大詔奉戴日神社参拜、校庭に甘藷(さつまいも)苗圃設置

4月15日 父兄参観日、学校長教育講話

4月20日 第2校時、緊急帰宅訓練

4月22日 勅語下賜記念日。神社清掃

4月25日 靖国神社臨時大祭遙拜式

4月28日 結核予防令旨奉読式。式後農商省よりパンの配給

 

5月2日  郡校長会決議が七曜制を廃止。高等科児童、麦の病害虫予防のため出動3日間

5月6日 午後全児童蓬(よもぎ)摘み作業に出動

5月7日 全校わらび狩りに出動

5月8日 大詔奉戴日行事実施、校庭空地利用のため耕地拡張

5月19日 地区の灌漑施設工事の基礎工事用の栗石採集作業動員 初3以上

5.月21日 宗祖誕生日につき、浄玄寺、明福寺に参詣。六年生は栗石採集作業

5月22日 勅語下賜記念日、閲童式、空襲避難訓練

5月23日 灌漑工事作業奉仕 初3以上

5月24日 初4以上、苗代乾水中の雀追い作業に出動

5月25日 初3以上、東原の竹運搬作業に出動

5月31日 防空訓練手旗訓練

 

6月2日 蓬(よもぎ)整理作業

6月3日  初5、西原土手へ竹運搬作業に出動

6月5日 初4以上、麦刈奉仕に出動

6月6日 麦刈奉仕

6月7日 校庭の甘諸植付作業

6月8日 大詔奉戴日、初3以上家庭作業

6月 21日 県視学、休閑地利用状況視察のため来校

6月 30日 献穀田の田植

 

農繁期の手伝い

農村では、子ども達は昔から家事の手伝いをよくしていた。戦争が激しくなると、若い働き手が軍に召集され、工場に動員されて、農家の人手が足りなくなってくると、子ども達の手伝いも以前より、もっと必要とされるようになった。学校でも農繁期休業を設けて、作業をすることが多くなってきた。平日に出征家族のお手伝いに行くこともあった。特に田植え時期や稲刈りの時期に働き手となることが多かった。時には稲の害虫取りや、いなごとりに出かけることもあった。

 


昭和20年(1945年)

原爆により校舎の一部損壊

 

原小学校の8月6日の記録には次のように記されている。

 

8月6日 

原子爆弾が広島市に投下され爆風により校舎に相当の被害あり。

1 窓硝子全部破損、唐戸10枚折損

2 柱数本折損、校舎に狂い生じ、階上の使用は危険なり。

3 職員児童に被害なし。

市内よりの避難者多数来校す。

 

学童疎開

原地域は周辺が田んぼの農村地帯であったため、学童の集団疎開はなかった。東京、大阪あたりの大都会から縁故をたよっての疎開が数名いた。

 

昭和20年頃の学校生活

昭和20年頃になると、敵機来襲で防空壕に避難することも多くなっている。昭和20年には夏休みもなく、各地域でお寺、お宮、集会所、大きな民家を借りて分散し、自習のようなかたちで勉強していたと聞く。上級生が下級生の面倒をみるやり方で、時折先生が巡回してこられたという。

8月6日の原爆投下の日もこのような分散学習(班別学習)の状態だったので、すぐに自宅へ帰ったと当時の人々は話している。

 

一方小学校を終えて旧制の中学校、女学校に進んだ人達は、旧市内で大きな被害を受けた。特に中学校、女学校の1、2年生は家屋疎開の作業に従事していたので、爆心地付近で被爆し、全滅の状態であった。3、4年生は周辺にあった大工場の動員作業に従事していた関係で被害は少なかった。

 

学校の復旧と授業の再開

原爆による校舍の破損、避難者の一時収容、仮兵舎としてしばらく使用されていた等、小学校教育の場としての復活には少し時間がかかったが、9月には何とか再開のめどをたてた。何より幸いだったのは児童が全員無事であったこと、それに地域全体の被害が少なかったこと。

 

しかし、9月18日の大型台風(枕崎台風)により、校舎が床上浸水し、学校のすべての器具は甚大な被害を被った。それでも10月に入ると授業の姿を取り戻すことができた。日本全体が戦後の混乱状態であったが、文部省は9月中旬から平常の授業を開始するよう指示している。

 


戦前の学校教育と子供達

 

学校行事 

朝礼

奉安殿に向って最敬礼、東方遙拜、武運長久を祈り、校長訓話。

 

出征兵士の見送り

日の丸の旗をふって、村境まで見送る。 

 

陸軍記念日、海軍記念日

訓話、身体を鍛えるための遠足 

 

学校の勤労作業

全学年農繁休業、農作業、家事手伝い

献穀田の田植え、稲刈り

よもぎ、いなご、彼岸花の球根採集

出征兵士の農家の手伝い

グランドや空地に甘藷、かぼちゃ作り

 

服装

 

学生服(黒から国防色)つぎはぎが多くなる。女の子はもんぺ姿、空襲がはげしくなると防空頭巾をかぶる。

 

遠足

明治から大正にかけては、すべてを修学旅行と呼んでいた。昭和に入ってからは卒業前の大遠足を修学旅行と言い、その他は遠足と言うようになった。行く場所は高学年が宮島等、低学年が近くの公園等が多かった。

昭和も10年代になると、日の丸弁当で長い距離や、山登り等の内容が多くなり、心身を鍛える方向になってきた。子ども達はそれでも結構楽しんで参加していた。高等科の修学旅行は伊勢神宮の参拝がほとんどであった。

 

運動会

昔も今も学校としての大きな行事である。親たちにとっても見学席の場所取りのため、早朝よりむしろをかついで学校に行っていたのを思い出す。種目の中にも、青年団、消防団、婦人会が参加するものがあり、村人全体の行事でもあった。

しかし昭和10年頃より演技種目が、棒上旗奪い、騎馬戦、敵前上陸(障害物競走)、建国体操(今の空手術)、剣道、戦争ごっこ等、時代を反映した内容が多くなった。運動靴も不足しほとんどはだしでやっていた。

 

子どもの遊び

昭和10年頃までは子どもにとって農村は楽しいところで、自然の中での遊びが豊富だった。

昭和10年頃までは原地区にも桑畑がたくさんあり、養蚕も盛んであった。桑の葉は養蚕にとって大事なものであるが、副産物として、桑の実があった。桑の実が紫色に熟れるととてもおいしい果実であった。村中ご馳走の山である。村の子ども達が桑畑に入り込んで、ロのまわりをむらさきに汚して、腹いっぱい食べた楽しい思い出がある。

 

太田川や安川の川べりには竹やぶが続いていた。秘密の基地をっくったり、かくれんぼをしたり時にはターザンのように木から木へとわたり、男の子にとっては、スリルのある遊び場だった。川には小魚や川えびなどが豊富で、捕った魚を夕食のおかずにしてもらったこともあった。

 

遊びは地域のガキ大将を中心にして遊ぶことが多かったが、結構うまくやっていたようである。どんなに遊びほうけていても、夕方になるとガキ大将が解散を命じてみんな家に帰っていた。女の子の遊びとしては家のまわりで、ゴムとび、けんけん、おじやみ(お手玉)などをしていた。

 

家に帰れば食事の支度、水をくんで風呂の用意、子守り、掃除などそれぞれが家での自分の役割をもっていた。家の人が一日の労働を終えて帰ってくる、その迎え方を子どもなりに充分わかっていたようである。

 

戦争の影響

原国民学校の昭和19年(1944年)前半の沿革誌や、祇園国民学校の昭和20年(1945年)前半の沿革誌をみると、戦争による人々の生活や子ども達の教育への影響がすさまじいものがあったことがわかる。断片的な記録ながら当時のようすを記してみる。

まず学校教育に大きく影響したことをあげてみると、

 

昭和

11年(1936年) 2月 ニ・ニ六事件

12年(1937年) 7月 日中戦争起こる

12年(1937年)11月 日独伊三国協定

13年(1938年) 4月 国民総動員法公布

16年(1941年) 4月 国民学校令施行

16年(1941年)11月 勤労奉仕を義務法制化

16年(1941年)12月 太平洋戦争起こる

17年(1942年) 1月 学徒動員令

17年(1942年) 4月 B 29、本土空襲

19年(1944年) 3月 中等学校以上通年動員実施

19年(1944年) 9月 満18歳以上兵役編入

19年(1944年)11月 広島市に建物疎開告示

20年(1945年) 3月 国民学校初等科を除き、学校授業1年間停止、広島市学童疎開実施

20年(1945年) 4月 米軍沖縄本土上陸

20年(1945年) 8月 原爆投下

 

昭和13年(1938年)に国民総動員令が出て、教育面でも戦時色が濃厚となってきた。

 

昭和16年(1941年)には国民学校令が公布され、「皇国の道」「国民の基礎的練成」との教育態勢となり国を挙げて、戦争一色になった。村の働き手は出征兵士として、年寄り、女性などは軍属、徴用工として動員され、中学生、女学生達も工場へ動員され、地域に残っている者といえば、子どもを抱えたお母さんと小学生、幼児と老人に病弱な人達であるので、農村の収穫時や、少しの工事でも小学生に參加してもらうことが多くなった。

 

昭和19年(1944年)から20年(1945年)の終戦の日までの沿革誌をみると、学校に行ってもほとんど毎日のように作業や農作業の手伝いが続いている。小学校低学年においても、教室で静かに勉強ができるような状態ではなかった。

 


昭和20年以降

 

進駐軍

連合国軍隊が日本に進駐してきた時、日本国中は大変な緊張をもって迎えた。いろいろ

と流言蛮語がとびかい、女や子どもは山へ逃げた方がよいとか、家の中にかくれた方がよ

い等、行政機関からも種々注意が出されたようである。進駐軍に対しては「常に毅然たる

態度を堅持し、明朗親切に対応し、不快の感を与えないようにする。」また生徒児童には物

乞い的態度はさせないように等である。

 

進駐軍の学校訪問

山本小学校に勤務していた有馬静男校長は進駐軍の学校訪問のようすを次のように記し

ている。

時期と訪問者:

昭和21年7月下旬、陸軍兵士 5名

訪問者の行動:

予告もなく突然来訪し、靴のまま玄関より廊下に上がり、1教室1名廊下側の窓を開けて、廊下より入念に授業を視察する。全教室の視察が終わると、物置等の奥まで入り、いちいち物を調べた。二階の物置に、軍の疎開物資の残りがあるのを見つけ、何か大声をあげながら運動場に投げ出し、最後に職員室に入り、戸棚の書類を入念に点検し、無言で校門を出ていった。校門の前の畑にある忠魂碑の前で何か話していたが、何も言わずに帰っていった。

その後:

数か月間は、何か譽告があるのではないかと、戦々恐々であったがついに何事もなかっ

た。

 

進駐軍と児童たち

進駐してきた米軍、英軍、豪軍、ニュージーランド軍の兵士達は想像していたよりかや

さしくて親しみやすかった。子ども達はすぐに慣れて、いくぶん物乞い的な様子はみられ

たが、仲よくなっていった。流行ことばで、「ギブミーチョコレート」はどんな小さな子ど

もでも使っていた。物資のない特に食料不足の時なのでいたし方なかったようである。

 

学校給食始まる

戦後の食料不足から文部省は「GHQ」の協力を得て、学校給食の実施を普及奨励した。

当時広島市の小学校では弁当を持参できない児童が相当数あったので、午前中で授業を打ちきったところも相当あった。

 


昭和22年(1947年)

祇園町立原小学校と改称

 

小学校とともに、中学校も発足し祇園町立祇園中学校が創立され、当初校舍がないため小学校の一部を借りて開校した。

 


昭和23年(1948年)頃

原小学校では、昭和23年(1948年)頃より、家庭から野菜等を持ちよりPTAの協力のもとで「味噌汁給食」が始められた。食料不足の時であったので、児童達は大喜びであったが、農家でできる野菜はどこも同じ種類のものなので、PTAの方は料理の工夫が大変だったようである。

 


昭和29年(1954年)

「学校給食法」が公布され、給食施設の整備や給食調理員の配置等がされるようになり、本格的学校給食になった。

 


昭和34年(1959年)

原小学校は現在地を拡張する余地がなかったので、講堂、校舎の増設をし、本格的には昭和34年(1959年)に新校舍を建設している。その後増築、改築を重ねて、現在の校舍になった。 

① 明治初期より昭和7年(1932年)までの平屋校舎。

② 昭和7年(1932年)に改築された2階校舍

③ 昭和26年(1951年)より現在地に移転し、その後徐々に拡大して、昭和35年(1960年)には現在の基礎が整う。

◎ 昭和12年(1937年)に村役場が1から2へ移転、講堂新築。

 

原小学校校舎落成

原小学校は校舎が古く、しかも校地が狭か ったので隣地を買収してかねてより校舎の新築等をいそいでいたが、昭和34年(1959年)3月7日、めでたく完成した。校地の広さは8780平方メートル、運動場は5524平方メートル、教室12、職員室、校長室、給食室等があり、土地造成を含めて総工費は1649万円余であった。

(祇園町誌)

 


昭和40年(1965年)

鉄筋3階建12教室の新校舎完成。

(ウィキペディア)

 


昭和41年(1966年)

原プールが完成。

プールはほしい、敷地はないで長い間困っていた原地区に、篤志家のおかげで敷地の確保ができ、昭和41年(1966年)7月25日に竣工式と泳ぎはじめをした。工費は約650万円であった。

(祇園町誌

 


昭和45年(1970年)

屋内体育館落成

(ウィキペディア)

 


昭和50年(1975年)

学級数と児童数

34学級 1362人

 


昭和51年(1976年)

児童増により、原小学校から387人、長束小学校から124人分離して、原南小学校が創立する。

学級数と児童数

25学級 980人


昭和52年(1977年)

中筋小学校は、原小学校より学区(東原)児童分離する。

 

人口増にともなう学校分離

昭和39年(1964年)には国道54号線が完成し、昭和47年(1972年)、広島市との合併等、学区内の人ロは急激に増加し、地域も急激に都市化が進んできた。

原小学校では、昭和39年(1964年)から人口増にともない、児童数が増え続け、校舍を増築することになった。できあがるまでにはプレハブの仮校舍で長い間勉強をしなければならなかった。昭和50年(1975年)には、児童数が1362人になり34学級のマンモス校となっていた。児童数の増加にともない、ついに小学校が分離をすることになった。

 


平成14年(2002年)

学級数と児童数

22学級  男361人、女356人、合計717人

 


平成29年(2017年)

学校のプールが完成。

 


令和元年(2019年)

学級数と児童数

29学級  男380人、女 361人、合計 741人

(広島市教育要覧(平成31年度(2019年度))

 


令和2年(2020年)

原児童館が開館。