太田川の昔の写真

 

太田川の川船の歴史については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

本稿は、「ふるさと原と私達」等から引用して作成しました。それぞれの写真等に出典元を掲載しています。

 


石土手: 東原一丁目、昭和28年(1953年)。東原の南端古川と太田川の合流点に水害を防ぐ為に石の土手が作られた。初夏になると野バラが咲き競う。潮干狩りに行く川船が下ってゆく。(ふるさと祇園とその周辺)

 

1枚目の白黒写真の右上に見えるのが、昭和27年(1952年)11月に開通した、木造の安芸大橋。

3枚目のカラー写真の安芸大橋は、昭和43年(1968年)3月に開通した。日本で初めてのニールセンローゼ橋(アーチ型の橋の一種)で、その後全国の同様の橋の先駆けとなった。

(祇園町誌・ウィキペディア)

 

古川: 東原一丁目、昭和30年(1955年)。竹林に守られ、静かに流れる古川。

 

石畳: 西原三丁目、昭和36年(1961年)。 

NHK祇園放送所南側で、旧中土手 (現国道54号) を超えて太田川に向かう道の最後の風景。この石畳の道を抜けると、眼前には太田川が拡がる。 トロトロと斜面を降りた所は、太田川水運の西原を代表する港で『日野の浜』と呼ばれていた。ここから川船で潮干狩りや海水浴に行った人は多い。西原では珍しく情緒のある風景だったが、河川改修の結果、現在は川の中となっている。

 対岸の山は牛田山で、河岸には太田 川ゴルフ場のコースがうっすらと写っている。

(はらだより・掲示板 2018年5月号)

 

日野の浜: 西原三丁目、昭和30年(1955年)。2枚目の写真の構造物は水量計。現在も太田川土手の近くに残っており、洪水時の水位の測定に利用されている。水量計には「昭和3年(1928年)2月1日」の表記がある(5枚目の写真)。

 

2021年5月撮影の日野の浜

 

 

帰帆: 西原二丁目、祇園新橋あたり、昭和34年(1959年)頃。白帆がのぼる。マジを帆にはらんでのぼる舟は、川内あたりから朝早く野菜を広島の市場に出しての帰り途か。

 

魚取り: 西原二丁目、昭和34年(1959年)。西原下流の竹やぶの茂る川辺。エビがよくとれた。水中に頭を入れているのは鰻を取っているのだろうか?

 

川原の運動会: 西原二丁目、昭和35年(1960年)。

 

牛田山から見た西原・祇園・山本方面: 昭和33年(1958年)。子どものころ泳いだ太田川。竹やぶ、家々。その向こうに武田山と火山。

 

水泳: 長束一丁目、昭和31年(1956年)。夏休みの子供たちの日課は川で遊び泳ぐこと。

 

渡し場: 長束一丁目、昭和34年(1959年)。太田川対岸の牛田方面へ行くには、この渡し場の舟以外に方法がなかった。昭和30年(1955年)ごろまで上流は太田川橋(可部)から下流横川橋までの間、橋がなかった。節句のおりなどは、不動院や牛田の山へ登って遊んだものだ。

 

筏下り: 牛田新町二丁目付近、昭和30年(1955年)頃

 

白魚取り: 西区大芝三丁目、昭和28年(1953年)。三月の初め頃になると、太田川の岸辺を白魚が連なって上流を目指してのぼってくる。

 

舟下り: 東区牛田新町一丁目付近、昭和30年(1955年)。我が家総出の舟下り。後方に牛田水源地の一部が見える。