西原四丁目 Hさんの記憶

 

昭和18年(1943年)生まれ、78歳(令和3年(2021年))。

亡くなられた夫と、夫の母から伺った話によると、Hさん宅でも5人の被爆者を家で看病されたとのことです。

 


亡くなった夫と、夫の母から聞いたお話です。

 

夫は当時小学校3年生。8月6日の朝、農協でお米をついた後、帰宅途中、家まであと100mくらいの場所で原爆がさく裂し、あたりは真っ暗になったそうです。田んぼはさーっと色が変わったとのことです。

 

夫の母の話では、家の南と東の窓や雨戸は吹き飛んでしまったとのことです。頑丈な柱と壁の間にも爆風で隙間が空いたということです。

 

8月6日には、昼過ぎから明福寺に向けて、ぞろぞろと被爆者がやってきました。

仏教婦人会は招集がかかって、明福寺に集まりました。そして、被爆者の方のけがの手当などのお世話をされたそうです。組長さんなど地域の男の方々は、被爆者の方々を各家に割り当てたそうです。家族が被爆した家は免除されたそうです。

 

母の家でも5人ほど預かりました。そのうちの2人の方は夜通し寝ずに苦しまれ、唇がひどくはれ上がって、口を開けることができないので、水を飲むことも食べることもできなかったそうです。そこで、麦わらの筒をやわらかく煮て、被爆者の口に差し込み、スイカやあじうりのしぼり汁やおもゆを飲ませてあげたそうです。

しかし、残念ながらお二人ともしばらくして亡くなられました。そこで地域の男の方々がご遺体を戸板に乗せて火葬場まで持って行って、焼いたそうです。

 

残りの3人の方は無事回復して、故郷の山口に帰るというので、母はおむすびをそれぞれに作ってあげて、お見送りしました。