祇園の地図

 

本稿は、はらだより・掲示板(令和2年(2020年)12月号)等から引用して作成しました。それぞれの写真等に出典元を掲載しています。 

 


明治27年(1894年)頃の祇園の地図:

 

上記の地図(祇園図幅)は、明治27(1894)年に大日本帝国陸地測量部によって測量され、明治29年に印刷発行されたものの一部です。この時期に、広島市周辺と山陽線沿線地域の2分の1地形図が完成し、太田川平野の実測図(測量して作成した地図)としては初めてのものです。ただ、軍事目的のため、軍事車両が通れない小径は記入されていませんし、住宅も物資調達を目的としており、この辺りに家屋が多くあるといった程度の表記です。ただ、河川改修を除けば、この地域の基本的な構造はあまり変わっていませんので、建築物を除去していくとこのような形になることでしよう。今津橋以南の村境は、安川です。

 

祗園町誌によると、明治27(1894)年には山陽鉄道が広島まで開通し、日清戦争が始まって祇園一帯は軍の宿営地となり、大本営が広島城に設けられ帝国議会が広島で開催されるという時代でした。軍用鉄道(宇品線)もこの年に開通しました。

 

ちなみに、この地に人力車が登場するのが明治22(1889)年、わが国初の乗合自動車が広島~可部間で運行したのが明治36(1903)年、自転車が登場するのが明治40(1907)年、三篠~祗園間の計便鉄道が開通したのが明治42(1909)年、古川に木橋がかけられたのは大正初期のことで、大正橋と命名されました。それまでは幅30センチくらいの舟板を渡して徒歩で渡るものでした。図中の白地は畑を示しています。 

 

出典: はらだより・掲示板(令和2年(2020年)12月号)・国土地理院


昭和25年(1950年)の祇園の地図:

 

出典: 祇園町誌(昭和27年(1952年)国土地理院発行)


昭和42年(1967年)頃の祇園の航空写真:

 

この時期、祇園町は広島市のベットタウンとして加速度的に人口が増加しています。祇園・長束あたりはもちろんのこと、かつては広島市の野菜の供給地であった西原・東原・山本あたりの耕地も宅地にかわるものが多く、住宅、商店、工場がつぎつぎに新設され、耕地は減少の一途をたどっています。また、祇園町の西部山地の山麓一帯にも住宅団地が造成されつつあります。

 

出典: 祇園町町勢要覧(昭和43年(1968年)版)


平成13年(2001年)頃の祇園の航空写真:

 

平成6年(1994年)に祇園新道が開通し、アストラムラインも運行を開始しました。

 

出典: ふるさと原と私達


令和4年(2022年)の祇園の地図(Google マップ):

 

西原にんじん通り」も掲載されています。

 

出典: Googleマップ (令和4年(2022年)4月30日)