西原四丁目 Mさんの記憶

 

大正14年(1925年)生まれ、96歳(令和3年(2021年)現在)。

20歳の時に旧陸軍被服支廠(南区)で被爆。原爆投下後5日目くらいに西原の自宅にたどり着かれたとのことです。

 


15歳で高等小学校を卒業して、20歳まで旧陸軍被服支廠(ししょう)に勤めました。ちょうど20歳の時、旧陸軍被服支廠(※1)で被爆しました。

 

旧陸軍被服支廠へは朝7時から17時まで働きにでました。JRで横川まで行き、そこから市電で日本たばこ産業 (JT) 広島工場(現在はゆめタウン広島)まで行き、それから歩いて被服支廠まで通っていました。時々は、宇品線でも通いました。

 

徴兵検査が1年繰り上げられて、昭和19年(1944年)か20年(1945年)頃に、吉田町(現在の安芸高田市)で徴兵検査を受けて、甲種合格(※2)しました。 

兵科(軍隊で、直接戦闘に従事する兵の職域)は飛行兵で決まりましたが、配属先はまだ知らされていませんでした。自分はすぐに兵隊になると覚悟していて、特攻隊員を希望していたと思います。

 

昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下の日は、7時には仕事場に着いて準備をして、被服支廠内で使用する車の修理の仕事をしていました。

 原爆投下直後は辺りが真っ暗になり、何とも言えない光で、紫の様な不思議な光でした。爆心音は聞いたかどうか覚えていないが、すぐに身を隠しました。建物は倒壊しませんでしたが、ガラスが割れ頭に傷を負いました。

 

原爆にあってからは仕事どころではなかったですが、原爆投下後はなかなか家に帰らせてもらえず、3日くらい建物内に残り、車の荷台に蚊帳を張って3、4人で寝ていました。被爆により大勢の人がここに逃げ込み、臨時の救護所にもなりました。

 

断水の為、水を貰う必要があり、比治山橋を渡って西の方に行った所で、何とも言えない、生暖かく、そして生臭い臭いがして、それより前に進むことができなくて、引き返したことがありました。

 

原爆投下後5日目位でやっと西原の家に帰ることができました。広島駅の方から戸坂の方に出たか、横川の方に出て帰ったか、記憶が薄れていますが、歩いて帰ったのは覚えています。

当時の家は藁ぶき屋根で、上の三角の部分が爆風でなくなっていました。

 

8月6日、父親は本当なら市内へ出てバラック等の撤去作業に行くはずでしたが、その日は役場に行っていて、被爆を免れました。私の知っている近所の人2人が、その日広島市内に出かけて被爆で亡くなられました。

 

原爆投下後、西原の方にも助けを求めて何日もぞろぞろと人が来ていましたが、西原を通り過ぎて、ずっと奥の方へ向かっていかれました。「水をくれ!」と言われましたが、飲ましたら死んでしまうと聞いていたので、あげられなかったです。

 

原爆投下後は、しばらくは歩いて被服支廠へ通いました。横川から寺町の辺りを歩いていたら、兵隊が軍服を着たまま川に浮かんでいました。身体は膨れ上がり、潮の流れで移動していました。そんな光景を沢山見ました。土手の下では、火傷で皮膚がただれた人が、「助けてくれ!」と弱々しい声で訴えていました。防火用水槽の中に身体を突っ込んで死んでいた人の姿もありました。地獄を見たことはありませんが、あの光景はまさに「地獄」でした。

 

8月15日の終戦記念日は、みんなラジオの前で重大ニュースを聞くようにとの知らがありました。昭和天皇の玉音放送で、「戦争が終わった」というニュースでした。放送を聞いて、「戦争に負けた」という声と、「まだ頑張って戦争をやるんだ」という2つの声があったように思います。

 

原子爆弾1発のために何十万人の人が一瞬の間に死んでしまいました。

まったく無惨な光景でした。

戦争の怖さ、平和の有難さを常に心に残してほしいと願っています。

 

※1 旧陸軍被服支廠

今の南区にあり、旧陸軍の軍服や軍靴を製造・貯蔵していた施設。今の南区にあり、爆心地の南東2.7kmにある最大級の被爆建物。

 

※2

甲種合格

徴兵検査で健康で体格もよく兵隊になるのにふさわしい人が、「甲種合格」となり、一番に兵隊に選ばれた。身体が小さかったり病気だったりすると「乙種合格」、「丙種合格」となり、すぐには兵隊にならなくてもよかった。