このページは、このページは、西原六丁目の宮本隆さん(故人)が平成9年(1997年)に発表された説明書き「西原のあけぼのと冬木神社及び楊柳観音」、「西原今昔物語」、「はらだより・掲示板」などを参考に作成しました。
冬木神社の昔の写真については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)
冬木神社の創建から現在までの修繕の歴史:
正保元年(1644年)に社殿が創建されて以来、明治41年(1908年)までの264年の間に社殿は何度も修繕や建て替えが行われました。このことについて、冬木神社に伝わる棟札を根拠として考察してみます。
棟札とは、棟上げの時、工事の由緒、建築の年月日、建築者や工事にたずさわった工匠、職人等を書いて棟に打ちつける木の札のことで、頭部は多く山形になっています。直接棟木に書いたものは〈棟木銘〉といいます。
この棟札を時代の古いものから見ていけば、冬木神社のこれまでの修繕などの歴史がわかります。
棟札に見る創建から現在まで:
正保元年(1644年)8月15日の棟札
八幡宮が西原村の楊柳観音堂の脇に創建されました。
安永9年(1780年)8月13日の棟札
本殿が造立(建て替え)されました。
寛政3年(1791年)9月 吉日の棟札
御殿が建て替えられました。
寬政4年(1792年)3月15日の棟札
御神体が仮安置所から本殿へ戻りました。
文化3年(1806年)11月吉日の棟札
弊殿が造建されました。
文政8年(1825年)8月 朔日の棟札
拝殿が造建されました。
安政4年(1857年)10月吉日 の棟札
本殿の修繕(柿屋根、突石上げ、鉤屋(かぎや)の建増)が行われました。
明治9年(1876年)9月 吉日の棟札
本殿の屋根の葺き替えが行われました。
明治41年(1908年)10月9日の棟札
神殿の屋根葺き替えと、拝殿の改新築がされました。
昭和4年(1929年)8月吉日 の棟札
神殿、拝殿の屋根葺き替えが行われました。
明治41年(1908年)の改築に関する新資料発見(はらだより・掲示板(2019年4月号と5月号))
昨年の夏、明福寺住職から、「書架を整理していて、珍しい資料を見つけました」と掲示板編集委員へ1枚のコピーが持ち込まれました。それは、明治42年(1909年)作成の「西原村冬木神社建築費決算報告書」でした。旧字体で記されており読みづらいものでしたが、このときの新・改築によって現在の神殿の姿になったと言う貴重なものでした。冬木神社については神殿に掛かる宗歩高分社前のくる女木神社の資料ぐらいしか見受けられませんので、いかに珍しいかお分かりいただけると思います。
神社には創設以来の棟札が9つありますが、下の内容(概要)以外はわかりませんでした。
『西原今昔物語』では明治41年(1908年)10月9日のことを「神殿の屋根葺き替え。拝殿の改新築鍵」と記し、さらに「なお、棟札はないがこの年に拝殿が改新築されている」と説明しています。収支を見るとこれが大改修で、いわば新装大開店であったことがわかります。
注)棟札とは、棟上げの時、工事の由緒、建築の年月日、建築者などを記した札
寄付等の収入総額は3,188円6銭5厘、支出総額は2,832円14銭5厘となっています。とりわけ目を引くのが収入の部の2段目(下表)にある「外国在住者の寄贈金額」で、789円42銭5輪にも達しており、これは村内寄付金額の3分の1以上を占めています。当時、原村は日本一の移民地帯の一角を占めており、何事につけ海外からの送金に依存することが多かったことを物語っています。
注)ちなみに、当時の物価は、巡査の初任給12円、大工日当1.1円、理髪10銭、米10キログラム1.1円。
明治41年(1908年)は、アメリカとの間に「日米紳士協約」が締結された年で、以降はハワイを含むアメリカへはわずかな例を除いてほとんど移住が認められなくなりました。数年前から移民排斥運動が激化したため両国政府が取った措置でもあります。その後はアフリカ本土とハワイでの定住化が急激に進みます。
こうした背景を考えると、神社新・改築への多額の寄付は、「郷里の最後の奉公」だったのかもしれません。
また、上棟式には職工人への祝儀や雑費、余興費が300円余り計上されていますので、村をあげてのセレモニーが挙行されたと思われます。
正面と西側の石段側面には、寄贈者と明治41年10月吉日、明治41年10月9日の落成日が刻まれています。
先月の掲示板で「西原村冬木神社建築費決算報告書(明治42年)」を紹介しました。その10日位後に、住職から「書架を整理していたら古い神社の写真が出てきました」という連絡を受けました。明治41年(1908年)に完成した現在の一代前のものです。
現在のものと比べると、屋根は小さく、拝殿も狭く、床高も低くて全体的にこじんまりとしながら孤高を保っている感じがします。荘厳なほどの屋根や多くの人が同時に参拝できるような拝殿でもなく簡素なたたずまいです。右手の杉の木と左手奥の大木は、今はありません。右奥の広葉樹は現在大木になっています。また、六角の観音堂は、大正4年の建立ですので写ってはいません。
規模や形がこれと酷似しているのが、東原の瑞穂神社です。両方の写真を載せておきますので比較してみてください。瑞穂神社は明治4 2年(1909年)1 0月に改築されて現在の姿になり、冬木神社はその1年前に新改築して、大規模に拡張したことになります。
そこで、旧冬木神社を瑞穂神社と同じ規模とみなして、現冬木神社と比較すると下表のようになります。
新旧では、幣殿(幣帛を収めるところで、供え物と畳部屋がある)の広さで2.3倍、拝殿の広さで3.0倍となっています。これに高さを加算すると、いかに大きな新社殿であるかお解りいただけるでしょう。
なお、垂れ幕には左側が「奉祷皇軍武運長久」、右側は「奉祷皇軍之必戦勝 原村消防組 第三部」と書かれており、背景には日露戦争(明治37年(1904年)から38年(1905年))の影響があったものと考えられます。また、冬木神社をはじめ東原の瑞穂神社、中筋の才の木神社など近隣の神社も明治40年代前半に改築されており、日露戦争勝利の祈念に応じた造営であったように思われます。
明治41年(1908年)までの境内には、写真の神殿と観音堂がありました。当時の観音堂は現在の茶堂の位置にあり、茶堂自体は観音堂の構造を継承して建てられています。古老によれば、その後の大きな神殿と洒落た六角堂は「西原の心意気」を示すものであったそうです。
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