西原の地域は、原爆の爆心地から約6~7㎞にあります。1945年8月6日に原爆が投下された時、西原の人々はどのようにしていたのでしょうか? また、中心部から非難してこられる被爆者の方々をどのように迎え、看病したのでしょうか?
ここでは、西原にお住まいの方々の、原爆、そして戦争に関する記憶を紹介しています。
西原あたりで撮影されたと推測される「きのこ雲」の写真
西原一丁目にお住いのYさんが保管されていた写真です。
写真をクリックすると、大きな画像を見ることができます。
西原八丁目 青木澄夫さん
昭和10年(1935年)生まれ、89歳(令和6年(2024年))
原爆が投下された時、小学校5年生で、きのこ雲が見えたとのことです。原爆投下の前後、昭和19年頃から終戦後までの西原の様子を丁寧にお話くださいました。
青木さんの記憶はこちらをクリックしてください。
西原6丁目 Kさん
昭和17年(1944年)生まれ、80歳(令和4年(2022年))
3歳の時の被爆体験を、不思議と今も鮮明に憶えておられるとのことです。
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西原四丁目 Mさん
大正14年生まれ、96歳(令和3年(2021年))。
20歳の時に旧陸軍被服支廠(南区)で被爆。原爆投下後5日目くらいに西原の自宅にたどり着かれたとのことです。
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西原四丁目 Hさん
昭和18年(1943年)生まれ、78歳(令和3年(2021年))。
亡くなられた夫と、夫の母から伺った話によると、Hさん宅でも5人の被爆者を家で看病されたとのことです。
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西原四丁目 Yさん
お父さま、お母さまは、戦後のご結婚です。原爆投下時には、お母さまは中区の舟入、お父さまは安佐南区の山本にそれぞれお住まいだったそうです。それぞれの場所での原爆投下時の様子をご紹介いただきました。ご両親は、亡くなるまで西原に住んで生活されたそうです。
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西原八丁目 Nさん
昭和15年(1940年)生まれ、81歳(令和3年(2021年))。
原爆投下時、4歳。母から聞いた話によると、何人かの被爆者を家で看病したとのこと。何人かの被爆者の方に、家の部屋を貸していたとのことです。
また、当時の防空壕のことについてもお話されました。
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皆さんの声:
西原4丁目 Nさん (令和4年(2022年)8月1日掲載)
このあたりは市中心部からかなり距離があるのに相当な爆風だった様子がよくわかります。
中心部では何もかもが吹き飛んでしまったのも当然でしょう。
原爆の恐ろしさをあらためて知らされます。
戦争を知らない老人たち は、西原の原爆の記憶も大切に伝えていかないといけませんね。
西原四丁目 Sさん (令和4年(2022年)8月1日掲載)
私は広島出身でないので、原爆というと、中区や南区のイメージしかないのですが、こんなに離れた所でも爆風があったりと、本当に怖いと思います。語り継ぐことで、平和が続く事を願います。
西原四丁目 Kさん (令和4年(2022年)8月1日掲載)
私も広島出身ではありません。被爆された方の証言は情報として知っていても、被爆されて逃れてきた人たちを受け入れ手当てされた方たちの大変さはあまり知らないような気がします。
爆心地からの距離感もこのホームページの皆さんの証言を聞くと、よくわかります。
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