西原八丁目 Yさんの記憶

 

91歳(令和7年(2025年))

「黒い雨に打たれたというとお嫁に行けなかった」という、当時の被爆者の苦しみをお話しくださいました。

 


私は原爆投下の時は鸚鳴国民学校(現古市小学校)の6年生でした。あの日は学校に行く日で、ちょうど校庭の掃除をしていたところ、飛行機(B29)が飛んでいるのを見かけました。急いで校舎の玄関に逃げ込みました。

 

原爆の爆発した瞬間の記憶はありませんが、その後黒い雨が降ってきたことは覚えています。

自宅に帰ると家の畳の上にはごみが落ちていたことを覚えています。

 

3歳上の兄は広島駅付近で被爆し、全身にやけどを負いながら古市まで帰ってきました。兄も「帰る途中に雨が降った」と言っていました。

 

古市小学校は臨時の救護所になりました。これから先何が起こるか分からずとても不安でした。

 

戦後、古市では「黒い雨により被爆した」というとお嫁に行けないといった噂があり、被爆者手帳の申請をしない女性が多くありました。そのような誤解が次第になくなり、被爆者手帳の申請を希望する人も増えました。しかし、その頃になると友人も亡くなったりしていて、「黒い雨に打たれた」という証拠がなく申請できない人も多かったようです。

 

その後行政の手続きが改善されたこともあり、私も令和になって、ようやく被爆者として認定を受け、手帳を取得しました。