このページは、原小学校の学校だより「すこやか」(令和6年(2024年)9月号)に掲載された森川敦子校長先生(当時)の「原小学校運動場にある被爆フジについて」をもとに、原小学校やあき書房他のご協力をいただいて作成しました。
はじめに:
原小学校の運動場には被爆フジがあります。西原に住んでおられた得田泰志さんから寄付していただいたものです。
令和6年(2024年)8月6日(火)の平和登校日にこの被爆フジについて児童に話しました。
保護者や地域の皆様の中にはよくご存じの方もおられると思いますが、学校だよりに掲載します。
「学校だより」本文:
明治23年(1890年)、広島駅の北側、二葉山の麓に東練兵場が設置されました。マツダスタジアムの14倍の広さで、召集された兵士による射撃や飛行訓練、騎兵連隊の演習などが行われていました。
この東練兵場のそばに得田さんのおじいさんが経営しておられた茶屋がありました。現在の東区上大須賀町です。茶屋の店先にはフジの木が植えられ、茶屋を訪れた人たちがフジ棚の木陰でゆっくりできるように、椅子や机が並べられていました。
茶屋の場所:
地図の出典: 戦時下の廣島(昭和14年(1929年)当時の地図復刻版)(あき書房刊)
戦争が激しくなり、昭和20年(1945年)8月5日、得田さんは家族と一緒に広島市温品に疎開されました。
8月6日、当時4歳だった得田さんは朝早くから庭で遊んでおられました。庭で見つけたバッタを石にくくり付けて遊ぼうと苦心していたときに、原子爆弾が投下されました。突然、ものすごく明るい光が差し、下を向いていた自分の頭がとても熱くなり、びっくりして家の中に戻り、お母さんに「頭があつい」と伝えたそうです。
そして、昼過ぎから外が暗くなってきました。血だらけになった人や傷を負った人たちがたくさん歩いて避難してこられたことを覚えているそうです。
後日、自宅の様子が気になり、家族と一緒に見に行くと、家は全壊で跡形もなくなっていました。茶屋も焼けていましたが、かき氷をつくる機械と焼けたフジの木が残っていたそうです。
フジの木はもう枯れてしまったと思われていました。しかし、1年後、根元から芽が出始めたのです。
その後、新幹線の建設で上大須賀町から移転することとなり、得田さんは西原に引っ越してこられました。フジの木をどうするか地域で話し合われ、得田さんはフジの木と一緒に西原に移転すると決められました。
当初は西原のご自宅の庭に被爆フジを植えておられましたが、被爆樹木として平和学習に役立ててほしいと願い、平成元年(1989年)1月に原小学校へ寄付していただいたという歴史があります。
平成元年(1989年)4月にゼオン化成株式会社広島営業所と真生工業株式会社から「プラ擬木藤棚」を寄付していただきました。藤棚のおかげで被爆フジはどんどん成長し、縦2m67㎝、横7m66㎝、高さ2m55㎝の棚いっぱいに枝やつるを広げ、原っ子の運動の様子を見守ってくれたり、木陰を作ってくれたりしています。
毎年4月から5月にかけては美しい紫色の花を咲かせています。
原小学校の平和の象徴と言えると思います。これからも大事にし、原小学校に被爆フジの木を残していきます。
被爆フジのそばに原小学校に移設された時の新聞記事もあります。是非ご覧になってください。
おわりに:
この話は、令和6年(2024年)1月7日のとんどまつりで、得田泰志さんとご一緒させていただいたときに教えていただいたことや学校に残っている資料をもとに構成しています。
令和6年(2024年)7月12日(金)に得田さんは83歳でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。
休憩: 令和6年(2024年)10月12日撮影。運動会の日、フジ棚の下でくつろぐ保護者の皆さん。
フジ棚(写真): 令和7年(2025年)4月26日撮影。
フジ棚(動画): 令和7年(2025年)4月26日撮影。
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