お父さま、お母さまは、戦後のご結婚です。原爆投下時には、お母さまは中区の舟入、お父さまは安佐南区の山本にそれぞれお住まいだったそうです。それぞれの場所での原爆投下時の様子をご紹介いただきました。ご両親は、亡くなるまで西原に住んで生活されたそうです。
私の父と母も被爆者です。当時父も母も独身で、戦後間もなく見合い結婚しました。
母は、爆心地から1,4キロメートルの中区舟入の民家に住んでいました。当時1階の茶の間には、簡単な穴を掘って作った防止壕らしきものがあり、原爆が落ちた時、その中に入りました。しかし、爆風で建物が破壊され、建物から出ることができないので、大声を出して、通行人に助けてもらったとの事です。
しかし、母の妹が、学校の建物疎開作業に出ていて、行方不明になりました。そこで、母の妹を探し出す為、約1週間程度、市内の防空壕など可能性のある場所を探し歩きました。その時に放射能を吸って、93歳で亡くなるまで、喘息で苦しめられていました。
母は、妹が通学していた学校で、妹の遺骨の入っている小さな箱を見つけました。中を開けると、黒い炭の様なものが、入っていたとの事です。母、遺骨が見つからない人も多い中で、妹の遺骨が見つかったのだから、自分はいい方だと言い聞かせたとのことです。そして、家族でお婆さんの実家である、佐伯区湯来に避難しました。
一方、父は、当時広島駅の隣の郵便局(昔は、その郵便局が広島中央郵便局でした。)に勤務していました。8月6日は、幸運にも前夜からの夜勤勤務で、朝まで勤務し、朝の早い時間に、実家のある安佐南区山本に帰りました。そして8時15分には、田んぼの草取りをしていたました。その草取りをしていた田んぼの近くに爆弾が落ちたものと思い、その田んぼに伏せたと言っていました。
その後しばらくして、役所からの召集があり、市内での死体の処理に出かけたとのことです。死体の処理とは、重油を死体にかけて焼却する事だったそうです。
このホームページに掲載している写真や説明を転載する場合は、必ず事前に西原中町内会までご連絡いただき、許可を得てください。
ご連絡はお問合せからお願いします。