西原六丁目 青木澄夫さん

 

昭和10年(1935年)生まれ、89歳(令和6年(2024年))。

原爆が投下された時、小学校5年生で、きのこ雲が見えたとのことです。原爆投下の前後、昭和19年頃から終戦後までの西原の様子を丁寧にお話くださいました。

 

なお、青木百貨店については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 


太平洋戦争:

昭和16年(1941年)12月8日に太平洋戦争が始まったが、西原に住む人々にとってはあまり実感がなかったように思います。それまでにも日清戦争や日露戦争がありましたが、いずれも日本の国土ではない場所での戦争でしたので、太平洋戦争についても同じような感覚を持っていたのではないかと思います。

 

原爆投下前の教育:

昭和19年(1944年)頃になると、原小学校には軍隊が駐留していました。戦争が激しくなるにつれて、広島市の中心部から疎開して来ていたのでした。

当時は家屋の密集地を中心に空襲がありました。原小学校は水田の中にポツンと建てられていたので、空襲される可能性が低かったため、疎開地に選ばれたのだと思います。

当時の原小学校の運動場は芋畑になっていたと記憶しています。

 

このような状況でしたので、子供達は学校では勉強できませんでした。小学生は原学区内の各地域に分かれ、それぞれの地域にある大きな家に10数人ずつ集まって勉強しました。毎日朝9時頃からお昼くらいまでで、日曜日は休みでした。上級生が下級生の面倒を見るといった方法でした。時々先生が各地域を巡回され、1~2時間勉強を教えてくださいました。

私は自宅近くの荒川さん宅で勉強していました。

 


原爆投下の日:

昭和20年(1945年)当時、私は小学校5年生でした。8月6日の朝も私達は荒川さんの家に集まって勉強していました。10数人の子供がいたように記憶しています。

8時15分の原爆投下の時は、窓辺に近い風通しの良いところで勉強をしていました。ピカッと辺りが光って、7~8秒後くらいして「ドーン」という音がしたように思います。私達は近くで爆弾が落ちたと思い、急いで部屋の奥に逃げ込みました。大きな爆発音がした時にガラスが飛び散りました。10数人いた子供達のうち1人はガラスの破片で怪我をしましたが、それ以外の者は幸いにも無事でした。

 

外に出てみると、きのこ雲が上がっているのが見えました。「原爆の記憶」のページに掲載されている「西原あたりで撮影されたと推測される「きのこ雲」の写真」(ここをクリック)は爆発直後だと思います。私が見たときは、下の図のように柄が細長く上空に伸びてその先にきのこの傘があるような形をしていました。

 

しばらくして私は自宅へ帰りました。その後1~2時間して、自宅の近くにある中土手の方には火傷を負った人たちが市内から避難してきました。その中には皮膚がただれていた人もいました。(図の赤線は当時中土手と呼ばれていた道路)

 

引用:Googleマップ

西原では負傷した人々を4~5人くらいずつに分けて、農家の納屋に寝かせて治療しました。治療といっても当時は赤チンを塗るくらいしかありませんでしたが、赤チンもすぐになくなってしまいました。結局治療という治療はほとんどできませんでした。

被爆者の方は1週間以内にはほとんど亡くなりました。その時点では「大型爆弾」が投下されたという認識で、「原子爆弾」が投下されたという認識はまだなかったと思います。

 

西原に住んでいる人たちの中には、親戚が広島市中心部に住んでいるとか、家族が中心部で仕事をしたり学校に通っているといった人も多くいました。

8月6日は、広島市中心部は火の海で近づくことができませんでした。8月7日~8日頃からようやく火の勢いが落ち着いてきたので、家族や親せきを探しに行きました。しかし、中心部に行った人たちはその後何日かして亡くなるという事態が相次ぎました。このような話は、昭和20年(1945年)末くらいまではよく耳にしました。

昭和21年(1946年)以降も、ある人が急に亡くなると、「ひょっとしたら原爆の影響か?」といった話が聞かれたものです。

 


終戦日:

昭和20年(1945年)8月15日には、大人たちから「天皇陛下の玉音放送があるのでラジオを聞きなさい」と言われました。それ以外は、子どもの私には特に変わったことはなかったように思います。

 

終戦後:

戦争に負けたという実感はあまりなく、時々進駐軍を見る以外は、西原では普通の生活が続いたように思います。

教育の再開:

終戦後は小学校に軍隊がいなくなりましたので、私達も9月ごろには学校で再び勉強できるようになりました。

 

昭和22年(1947年)になると、山本地区で中学校の仮校舎が完成し、授業が始まりました。原小学校の卒業生は山本中学校に通うことになりました。昭和23年(1948年)には三菱の工場(現在のイオンモール祇園)の中に祇園中学校ができ、祇園中学校に通うようになりました。

 

高校は当時は市内と可部にありました。安古市から北の人たちは、可部の高校に進学しました。私達西原の人間は市内の高校に入学しました。

 

原爆傷害調査委員会(ABCC):

西原に住む被爆者の方もABCCの調査の対象になり、大きな外車が自宅まで迎えに来ていました。当時外車はとても珍しかったです。